山口県ゆかりの地巡りモデルコース

東京には、主に明治維新期に由来する山口県ゆかりの地が今なお数多く残されています。
山口県東京営業本部では平成26年から「幕末維新ウォークラリー」と題したイベントを実施しており、このページではイベント時に使用したマップ掲載及び史跡を紹介します。

皇居周辺

  1. 山口県の木(皇居東御苑)

    皇居の東御苑敷地内には、全国47都道府県の木が植えられているエリアがあり、山口県は「アカマツ」が植えられています。アカマツは昭和41年、広く県民からの公募によって山口県の木として制定されました。県内に広く分布するこの木は、どんなやせ地でも育ち、干ばつにも強いことから「根性の木」として評価されています。山口県の木は明治維新の大業を成し遂げた、長州藩の根性をも象徴しているのです。

    場所 東京都千代田区千代田1-1(皇居東御苑内、「諏訪の茶屋」近く)
  2. 蕃書調所跡(九段南)

    アメリカのペリーが黒船を率いて来航し、幕府に開国を求めたのが嘉永6年(1853年)、それから2年後の安政2年、幕府は九段坂下に洋学研究機関として蕃書調所(ばんしょしらべしょ)を設置しました。蕃書調所の開所から約2年後、現在の山口県山口市出身で、新進気鋭の洋学者村田蔵六(大村益次郎)が教授方手伝いとして招かれました。蕃書調所跡は、現在では靖国通りに面した九段下交差点の一角に位置する交番の隣に史跡説明板が建つのみです。

    場所 東京都千代田区九段南1丁目
  3. 品川弥二郎像(九段南)

    品川弥二郎(1843年11月20日〜1900年2月26日)は現在の山口県萩市で生まれ、十代のころに松下村塾に学び、吉田松陰から「弥二の才得やすからず」と評され特にかわいがられました。松陰の死後はその志を継ぎ、長州藩士として高杉晋作、久坂玄瑞らと尊皇攘夷運動、倒幕運動に奔走し、元治元年(1864)には同志とともに御楯隊(みたてたい)を結成しました。明治維新後は渡欧してプロイセンの農政・協同組合などを研究し、帰国後は初代農商務省大輔となるなど各方面で活躍しましたが、明治33年(1900年)にインフルエンザに肺炎を併発し、56歳で死去。

    銅像は明治40年(1907年)に九段坂公園内に建立されましたが、関東大震災で台座ごと倒壊したため、現在のものは2代目です。

    場所 東京都千代田区九段南2-2-18 九段坂公園内
  4. 大村益次郎銅像 (靖国神社) 

    現在の山口県山口市で生まれた長州藩出身の大村益次郎(1824年5月30日~1869年12月7日)は、戊辰戦争で新政府軍の作戦を指導するなど、明治政府の兵部大輔(ひょうぶたいふ=国防を司る省の次官)として国民皆兵の基礎を築きました。司馬遼太郎氏の小説「花神」の主人公でもあります。その大村が戊辰戦争の戦死者の霊を弔うため、社地を選定したのが東京招魂社(現在の靖国神社)です。

    大村益次郎の銅像は明治26年(1893年)2月5日、靖国神社参道に建立。日本におけるヨーロッパ式銅像第1号で、作者は近代彫刻の先駆者・大熊氏広(おおくまうじひろ)です。

    場所 東京都千代田区九段北3丁目1-1(靖国神社)
  5. 山縣有朋公旧宅跡(農林水産省三番町分庁舎)

    現在の山口県萩市に生まれた長州藩出身の山縣有朋(1838年6月14日〜1922年2月1日)は、明治政府において二度にわたり内閣総理大臣を務めました。

    彼は明治建築界の雄と謳われた片山東熊(かたやまとうくま、元長州藩士)に設計を依頼し、明治18年(1885年)、東京都九段にわが国の洋風建築の先駆けともいえる邸宅を完成させました。

    その建物は残念ながら関東大震災や空襲によって消失しましたが、戦後、敷地に農林水産省の分庁舎が建てられ今に至っています。

    場所 東京都千代田区九段南2丁目1-5 農林水産省分庁舎
  6. 山口県花の石盤(皇居外周路)

    皇居をぐるりと囲むように敷設されている歩道(皇居外周路)上には、47都道府県のシンボルとなる「花」をあしらった石盤が100m間隔で埋め込まれています。山口県花「夏みかんの花」の石盤は最高裁判所近くにありますので、皇居周辺の見学や皇居ランなどで付近に立ち寄った際には、ふと足元を眺めてみられてはいかがでしょうか?

    夏みかんの花

    山口県を象徴する花として、昭和29年(1954年)に「夏みかんの花」が選定されました。夏みかんの花は長門市大日比(おおひび)が原産地で、5月になると白い花が咲き甘酸っぱい香りが漂います。花は1ヵ月程度咲き誇り、やがて「だいだい」と呼ばれる黄色い実がなります。

    場所 東京都千代田区千代田1-1(最高裁判所近辺)
  7. 長州藩上屋敷跡(日比谷公園)

    長州藩上屋敷(ちょうしゅうはんかみやしき)は、慶長8年(1603年)9月に、藩主毛利秀就(もうりひでなり)が徳川家康より拝領したことに始まります。江戸城桜田門外にあり、表門は西の丸下を囲む内堀沿いの道に面していました。

    桜田藩邸として使われたこの長州藩上屋敷ですが、元治元年(1864年)7月19日の「禁門の変」により幕府から全国各地の長州藩出先機関の没収・取り壊しを命じられると、翌8月に解体処分となりました。

    なお、周囲には仙台藩伊達家、米沢藩上杉家、黒羽藩大関家などの江戸屋敷があり、今の日比谷公園の北西部がその跡地にあたります。(現在では石碑など遺されているものはありません。)

    場所 千代田区日比谷公園(日比谷公園北西部)

世田谷区周辺

  1. 大山道 道標(世田谷通り)

    現在の国道246号線及び世田谷通りは、かつての大山道(おおやまみち・おおやまどう)にあたり、江戸から丹沢霊山大山(神奈川県伊勢原市)に参詣する道でした。赤坂見附から青山を通り、池尻、三軒茶屋、用賀、二子玉川へと抜ける道ですが、三軒の茶屋があったという玉川通りと世田谷通りの分岐点となる三叉路には、江戸時代より不動明王が上部に鎮座した道標が建てられていました。

    寛延2年(1749年)に建立され、現在残っているものは文化9年(1812年)に再建されたもので、道標には正面に〈左相州通大山道〉、左側に〈此方二子通〉、右側に〈右富士、登戸、世田谷通〉と記されています。

    幕末の長州藩士たちが颯爽と駆け抜けていった足跡が、何処かに残っているかもしれません。

    場所 世田谷区太子堂
  2. 林芙美子 旧居跡(世田谷通り)

    昭和に活躍した日本を代表する女流作家である林芙美子(本名:フミコ)は、明治36年(1903年)に山口県下関市に生まれ、行商の養父・母に伴われて放浪する不幸な幼少時代を過ごしました。成人し上京した後も、女中などを経験し男達との人生遍歴を重ねました。そうした中で身についた強靱な生命力と庶民性によって、昭和5年(1930年)、明るさと詩情を感じさせる独自の文学世界を創り出した出世作「放浪記」を執筆。戦時中は報道班員として活動し、戦後も旺盛に執筆を続けましたが、47歳で急逝しました。

    世田谷区太子堂には、彼女が不遇の時代を過ごした二軒長屋(寓居)がありました。(現在は世田谷区教育委員会による碑が残されるのみです。)

    1961年に誕生した森光子さん主演の舞台「放浪記」は、仲間由紀恵さん主演として今も受け継がれている名作です。その舞台冒頭では、いつも次の一節が朗読されています。

    「花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき」(林芙美子の短詩)

    場所 世田谷区太子堂3-29
  3. 松陰神社(松陰神社駅)

    幕末の教育家・思想家である吉田松陰のほか、伊藤博文、山縣有朋を始めとする松下村塾(しょうかそんじゅく)の生徒を祭神とする神社です。松陰は安政の大獄により処刑された後、小塚原の回向院に葬られましたが、高杉晋作や伊藤博文ら在江戸の門下生たちの手により、文久3年(1863年)1月、世田谷区若林の地に改葬されました。

    のちの明治15年(1882年)10月21日、門下生らの手によって墓畔に松陰神社が築かれました。今日の社殿は昭和2年から3年にかけて造営されたもので、鎮座地はかつて長州藩主の別邸があった場所になります。

    江戸時代末期(幕末)に、長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)で吉田松陰が営んだ私塾です。松陰が同塾で指導した短い時期に在籍した塾生の中から、幕末~明治期の日本を主導した人材を輩出したことで知られています。

    場所 世田谷区若林4丁目35-1<
  4. 世田谷代官屋敷/世田谷区立郷土資料館(世田谷区世田谷)

    世田谷代官屋敷は、徳川四天王の1人である井伊直政や幕末の大老直弼で有名な井伊家の世田谷領の代官を代々務めた大場家の役宅(やくたく※官舎)で、大場代官屋敷とも呼ばれました。昭和53年1月には住宅建造物として都内で初めて国の「重要文化財」に指定されています。

    世田谷代官屋敷の敷地内には世田谷区立郷土資料館があり、これは昭和39年に開設された都内最初の公立地域博物館です。かつての農村地帯から88万人が住む住宅都市へと変貌を遂げた、世田谷区の貴重な歴史・民俗資料が5万点以上収蔵されているほか、吉田松陰に関する資料も収蔵されています。

    場所 世田谷区世田谷1-29-18
  5. 豪徳寺(世田谷区豪徳寺)

    豪徳寺(ごうとくじ)は曹洞宗の古刹(こさつ※由緒ある古寺)で、創建当初の寺号は弘徳院と称していました。名称が豪徳寺となった由来は、次のようにいわれています。

    鷹狩の帰りに弘徳院を通りかかった彦根藩主の井伊直孝は、寺の飼い猫が手招きをしたため、一休みすることにしました。そして寺の住職からお茶の接待を受けている最中に空模様が悪くなり、雷雨になってしまったのです。「猫が招いてくれたおかげでずぶ濡れにならずに済んだ。これは縁起がいい。」と直孝は喜びました。これが縁でこの寺が井伊家の菩提寺となり、直孝が没すると、直孝の院号「久昌院殿豪徳天英居士」にちなみ、寺の名前を豪徳寺と改めました。このことから豪徳寺は「招き猫発祥の地」とする説があり、敷地内には招猫観音を祀る「招猫殿」が置かれています。

    そして、同じく敷地内にある井伊家の墓所には、明治維新期に吉田松陰と相対する立場で生きた大老・井伊直弼が眠っており、松陰神社と豪徳寺が徒歩圏内にあることに歴史の不思議さを感じさせます。

    場所 世田谷区豪徳寺2-24-7
  6. 勝國寺(世田谷区世田谷)

    勝國寺(しょうこくじ)は、弘徳院(豪徳寺)を開いた5代目世田谷城主・吉良政忠が開基となり、世田谷城の裏手鬼門除けとして丸香山薬師院と号し創建されました。

    境内には、吉田松陰と親しかった儒者・土屋矢之助こと土屋蕭海(つちやしょうかい)の墓所があります。

    土屋蕭海は長州藩出身の幕末志士で、文政12年(1829年)に山口県萩市で生まれました。嘉永4年(1851年)に江戸に出て吉田松陰らと交わりますが、安政元年(1854年)の父の死によって帰藩し、萩市に塾を開きました。藩内では『長州少壮中文章第一』という評価を受け、松陰も詩文等の添削を蕭海に依頼していたという逸話が残されている程、文章の才に優れていました。

    なお、勝國寺の墓所内には、蕭海の弟で維新後海軍機関大佐となった土屋平四郎も合葬されています。

    場所 世田谷区世田谷4-27-4
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